卵が先か、にわとりが先か。
それが問題だ。
と思いながら答えを出す気はなく単にうんうん考えていたいから書いているだけのテキストです。考えるのが好きなので。
なので今回は図解等もなくこのまま1万字ほど続きます。
また当然ですが以下のテキストはあくまでも”個人の解釈”であり正解を押しつけるものではありません。
世の中オタク全員が”それぞれの解釈”を好き勝手発信してくれたらいいな~と願いながらお送りします!
※内容についての注意点※
●富極&富授&全授の内容に触れる記述あり
●作り手の思考をメタ読みする記述あり
●自分に経験や体感があるものを例として記載しがち
●己の感覚とキャラクターの自我を混同して語りがち
●”創作物としての富授”の厄介オタクが大暴れ
[目次]
【キャラクターとしての側面】
まず情報を整理しよう
富授まで読んでしまった身からすると”オスカ・ヒュセイノフ”という人物が紛れもなく存在しており、もろもろの過去を経てヴァローレで”ティツィアーノ”として生きていたと捉えるのが無難だろう。
しかしこれは不可逆な時間の中で実際に生きている人間の話ではないから難しい。
二次元の世界の登場人物であるティツィアーノが、ヴァローレで生きていた時すでに”オスカとしての過去”があったかと言われるとたぶん無いのでは……?と言うところに(インタビュー等を読んだ結果)落ち着いた。
私がティツィアーノに向き合っていたあの時、彼は紛れもなくティツィアーノ以外の何者でもなかった。
しかし私がオスカに出会ってしまったことでティツィアーノは過去ごとオスカに飲み込まれてしまった。
シナリオの巧みさ(かつ力の入り方)から当然矛盾は一切生じていないが、それゆえに”ティツィアーノを信じていた自分”の存在が強い力で踏みにじられていく。
本来ふたりともそれぞれ好きでいたかったのに、ティツィアーノを真とするとオスカが虚になり、オスカを真とするとティツィアーノが虚になる。
私が彼(彼ら)に狂わされている大きな理由はこれかもしれない。
そして私はそもそも”富を授けし者”編という作品に物凄く惚れ込んでいる。
だからこうやって色んな側面から向き合ってみては、究極のトロッコ問題の舵を切れないまま毎日を過ごしている気分になっているのだ。
どちらも”虚”にしないための二律背反
私はオスカの感情の移り変わりに共感する部分が多いので、オスカを主体にした思考で色々と掘り下げることが多い。
するとやはりどうしても”ティツィアーノは虚”という角度のテキストを多く書かざるを得ない。
それが辛くなってティツィアーノと向き合うと、今度は"オスカは存在していない"前提で考えないとならない。
だから結局オスカのことを考えれば考えるだけティツィアーノのことを考えないと心のバランスが取れなくなる。
その繰り返しをしているうちに気がつけばずっと彼のことを考えているのだ。
それらふたつは残念なことにどうしたって両立出来ず、あちらを立てればこちらが立たずになってしまう。
どちらも虚にしないために取れる唯一の手段が富授のラストシーンであり、それに付随する余白によって私はどちらも否定せずに今を過ごせているのだろう。
ピエロ・デッラの存在
バルジェロが終盤”オスカ”と呼ぶようになるのに対し、ピエロ・デッラが頑なに”ティツィアーノ”と呼び続けるのは本当によい対比だ。
バルジェロはどんな姿形や名前であっても「お前はお前だ」というスタンスで”かつてティツィアーノだったオスカ”ごと肯定しようとしている。
一方のピエロ・デッラはどうだろうか。
彼は最後までティツィアーノを信じてオスカの存在が嘘であると叫び続けている。
確かによくよく考えると彼が一番”ティツィアーノの嘘”の被害者ではなかろうか。
富極の時点ではどちらかと言うとこのふたりが悪友!マブ!というような印象があり、私も彼らふたりの関係性が好きだ。
けれどこれは”オスカ”がそういうパワーバランスでファミリーのコミュニティにいたからなのかもしれない……ということを未来を知っている私は考えざるを得ない。
しかし(本当にメタ的なことを言うと)ピエロ・デッラがティツィアーノの悪友として過ごしていた時点でオスカはいなかったはずだ。
授けし者編は後から制作が決まっており「バルジェロファミリーの続きを」となった結果生まれたのがオスカである(たぶん)(もしかすると当初から構想にあった可能性は0ではない)。
なのでピエロ・デッラの混乱は富極を歩んできた私の混乱と近いはずである。
ティツィアーノといちばん仲がよいのは自分であり、フラも合わせた3人で一緒にバルジェロの力になって夢に向かって頑張ろうな!……と語っていた相手が実はハナから自分なんて眼中に入れずずっと騙されていたのかもしれない。
そんな可能性を鼻先に突きつけられてしまったらオスカを否定することしか出来ないのはとてもよくわかる。
(余談:その混乱を色濃く描くために富授でピエロ・デッラとロッソのやり取りが多々描写されるのも、ロッソやレヴィーナが"ティツィアーノ"の他人として存在しているのも、最終的に他人のふたりが一歩引くのもすべてがよい、何もかものバランスがよすぎる。)
私たちが生きる現実世界では、物凄く巧妙な嘘をついたとしても”その過去がなかった”ことには出来ない。
背負ってきた過去の経験は絶対にゼロにならないので、どれだけ巧妙に振舞った所で0.1%の綻びは生じてしまう。
けれど私はオスカの過去を持たないティツィアーノと"オスカの過去を持つティツィアーノ"という嘘を持つオスカのふたりを知っている。
これはもう考えることでしかどうにもならないのだ。
こうしてぐるぐるぐるぐる唸ってそのうちバターかジャムにでもなるのだろう。
せめて自分が出来ることは”ティツィアーノをやっていた時のオスカ”の描写と、"オスカが存在していないティツィアーノ"の描写で明確に差がつくように努力を怠らないくらいなので永遠に頭をうんうん捻らせている。
【ひとりの人間としての側面】
前提
創作面からのメタ的視点は一旦さておきオスカ・ヒュセイノフという人間の精神状態について掘り下げたい。
シンプルに彼をひとりの人間として捉えた時にオスカが"ティツィアーノ"を演じていたのか、それともティツィアーノが"オスカ"になってしまったのか。
これは間違いなく諸説あり、私の中でも最終的な解は複数ある。
くどいようだが答えを定義する気はない、あくまでも思考に苦しむことを楽しんでいる。
人間のベースにはオスカ・ヒュセイノフという人物がいる事実は絶対に覆せない。
その上で富授における”持たざる者”としての側面が一体どのタイミングで彼の心に現れたのか?もしくはずっと存在していたのをどうやって隠していたのか?
それら無数のifを膨らませる仕事がオタクにまだまだたくさん残っているのだ。
その中で比較的自分の思考のベースに存在して己の創作をする上で暫定的に持っているひとつの話をする。
多面的≠嘘
人は誰しもペルソナを持った多面的な生き物であると思っている。
私自身が超多面的人間ゆえにオスカの行動心理を他人事とは思えない。
それこそバルジェロのような人間を見ると「めちゃくちゃ屈強な嘘なんだろうな」と思ってしまう。
(実際のところバルジェロはそもそものメンタルが屈強でペルソナを持たずして生きている稀有な人間な訳だが。)
とても大事なことだが多面的な人間は決して嘘つきではない。
裏表があるのではなく、あくまでもサイコロの面のように複数のペルソナが存在し、コミュニティごとにペルソナが切り替わっているだけだ。
サイコロに面が複数あることで立体を保っているのと同じように、多面的な人間はいずれかの面が真および虚なのではなく”多面的であることそのものが真”になる。
そもそも多面的な人間か一貫性のある人間かどうかはあくまでも柔と剛の話だ。
器用な処世術なのか、それとも揺るがぬ強さなのか、その違いだけでしかない。
経験則と知見から言って幼少期から周囲(もしくは特定の誰か)の顔色を伺って過ごす機会が多いとこういった処世術を身につける可能性が高いように思う。
それらを踏まえた上で私の中での”ティツィアーノ”は間違いなくペルソナだ。
けれどそれはオスカが悪態で語っていたような"悪質な嘘"ではなく”本気の皮”といった温度感で捉えている。
生きていく上でそのコミュニティに適応するための虚に建前や背伸びはあれど、それは決して嘘ではない。
10年働いてる職場で外面がよい自分は紛れもなく自分だが、自宅でくつろぐ姿とはまるでまったくの別人である……みたいなことを想像すると早いのではないか。
ティツィアーノとしか出会っていなかった頃でさえ「外面いいけど一番腹の中で何考えてるかわからんタイプだなあ」と思っていたので、そういう部分は多かれ少なかれ存在している人物なのであろう。
そもそもハナからオスカが欲まみれであれば、とっくに指輪の力が暴走してこれほど長い間一緒にいられなかったのではなかろうか。
オスカがティツィアーノとしてバルジェロファミリーにいたのはそれを彼が望んだからであり、時が来るまで指輪の力に頼る必要がなかったからだ(ということにさせてくれよ頼むから)。
オスカ・ヒュセイノフは元来頭の回転が早い繊細な人間だったのではと予想する。
そこに幼少期の生い立ちが加わり、他者と接する際にペルソナをしっかりと持つ処世術を身につけたのではないか。
そんな彼だからこそバルジェロ達が作り出す小さな社会になんとかしがみつくために"ティツィアーノ"を産み出した、だから最初はきっと”虚”だった。
けれどこれだけもの時間を培った”虚”はいずれ自分に馴染み”真”になっていったのではないだろうか。
(余談:似たタイプにシメオンやカザンが挙げられるかな、と考えている。アーギュストおよびシュワルツは多面的というよりかは解離性同一症の類な気がするのでまた少し異なるように思う。)
ピエロ、そしてジュダ
ピエロ・デッラと親しいティツィアーノ
ジュダを従えるオスカ
両者は確かに同じ人間だが、隣り合うサイコロの面のようにそれぞれ存在することが可能だ。
そしてその面は交わらない別個のものであり各面が各コミュニティ内での役割を果たしているだけでいずれにも嘘がないのだ。
ゆえに彼を取り巻く人間関係も過去もはいくらでも想像の余地が広がる。
たとえばティツィアーノの裏でジュダと連絡を取るオスカが存在していてもなんの違和感もない。
(個人的にはジュダ達との交流があるのは富を極めし者以降だと捉えているがあれこれ考えるのは全部楽しいのでなんでもよい。)
”ティツィアーノ”がピエロ・デッラととくに仲良い印象があるのは圧倒的にバルジェロがトップだからなのだろう。
彼がバルジェロと本当の意味で対等になるにはバルジェロがトップに存在するコミュニティとは別のコミュニティのトップとして正面から殴り込みに行くしかない。
バルジェロの存在も夢もすべてを認めているからこそ、一歩下がるか正面に立ちふさがるかしかないのだ。
つまり”バルジェロファミリーのティツィアーノ”でいるためにはピエロ・デッラが必要不可欠であり、”バルジェロと対等に正面から向き合うオスカ”でいるためにはジュダ達の存在が必要不可欠である。
それは世間一般の形とは異なるかもしれないが、間違いなく相手の存在を認めて必要としており決して嘘偽りのない信頼だと私は捉える。
越えられない幼少期の壁
以上を踏まえた上でなおティツィアーノにはどうしても乗り越えられない大きなコンプレックスがある。
それはどんなに長い時を共に過ごしてもスタートラインが違う時点でピエロ・デッラやフラと同じにはなれないと言うことだ。
人間の人格形成は早くて3歳頃からはじまり、基礎の部分は10歳までに確立すると言われている。
バルジェロ、ピエロ・デッラ、フラの3人は幼い頃から共に貧困と隣り合わせで生きていた。
一方のオスカはサンランド地方の貴族として幼少期を過ごした後にバルジェロ達に合流している。
つまりどう足掻いても価値観や思想・生き方のベースが違うのだ。
バルジェロ達が感じる貧困への恨みと、オスカの感じる貧困への恨みはまるでまったく別物だ。
そのコンプレックスを乗り越えてまで彼がバルジェロファミリーにいられたのは彼がバルジェロファミリーのことをよく理解して「ティツィアーノならこう振る舞う」と巧みに計算した結果だろう。
先述のピエロ・デッラと取り分け仲が良いことに関してもバルジェロがトップに君臨した際にその横には誰も立たず下で皆で支えるのが美しいと思っていたんじゃないだろうか。
だとするならば、それはもう立派な愛だ。
“嘘”なんて簡単な一言で塗り替えられるはずがない。
スタートが”虚”だったとしても彼は間違いなくティツィアーノとしてバルジェロファミリーの中で生きていたのだ。
もしかするとオスカ自身でさえもティツィアーノを”真”にしたかったのではないだろうか。
そう、”選ばれし者”が現れるまでは。
【そして分岐する自我】
選ばれし者の差分
ここから先の話は各々の大陸の”選ばれし者”が誰かによって捉え方がより大きく異なってくる。
たとえばステッドやクロエのような多面的であることが当たり前の人間だったら……。
はたまたクレスやケネスのようにファミリーよりも明らかに年齢が高ければ……。
もしくはヴァローレが所属タウンのトラベラーだったら……。
きっとこの解釈とはまた違う世界があったに違いない。
弊旅団はファミリーと①年代も近く②ヴァローレではない近場の都市に暮らす③まったく多面的ではないロロだ。
彼は竹を割ったような性格でトラベラーの中で”人間関係”とは一番程遠い所にいる気がする(諸説)。
何よりロロにはすでにルール―が相棒として存在しているので、より一層バルジェロ達が発する”相棒”の言葉の意味が私の中では歪んで解釈されていった。
崩壊のきっかけ
くどいようだが、多面的であることは決して悪ではなくむしろ器用な対人テクニックとも言える。
ただ”多面的ではない人間がマジョリティのコミュニティ”においてその事実は多面的な人間に疎外感を生む。
そして何かひとつの歪が生じた際に大きく精神を揺るがすフックにもなる。
また多面的な人間が不得意とするのは異なるのペルソナで接しているコミュニティが何かをきっかけに合流してしまうことだ。
たとえば学生時代ビシバシにしごいていた部活の後輩と、今職場で物凄く当たりがキツイ上司の両方と同じ場にいたときにどう振舞うか?
そういったことを想像してなんとなく困るようであれば、それはあなたも多面的にコミュニティを渡り歩いていると言える(想像して一切困らない人間は前述で言う剛のものだろう)。
それぞれの面が別で存在しているからこそ、切り分けやスイッチングが上手くいかなくなった時にサイコロは立体として自立する機能を失い崩壊する。
その崩壊のきっかけは富を極めし者中のそこかしこに転がっていた。
ソニアという幼馴染かつヒロインとも言える存在の再会と別離。
圧倒的強者であるロッソとのぶつかり合いと合流。
そして外の町から現れた新入りが相棒に変容していく様。
これらは”ティツィアーノ”の居場所を奪うには十分すぎる要素である。
あの場にいたティツィアーノがファミリーに溶け込むためにカスタマイズされた人格なのであれば、自らのポジションが脅かされていることに不安を覚え、何か明確に自分の位置づけをしようと試みるのではないだろうか。少なくとも焦りは生じたはずである。
自分が今まで10年かけて培ってきたポジションが次々と起こる出来事によって揺らいでいるのだ、たまったものではない。
さまざまな解とifの想定
焦りと苛立ちが生じた結果、指輪の力を頼って……というのがひとつの解。
そもそも実は一番最初から全部算段だった……というのもひとつの解。
最後の最後まで何も計画をしていなかったがヘルミニアに手をかけられて指輪に頼らざるを得なくなり……というのもまた解としてありだろう。
この辺りはいくらだって考えようがある。
そもそも”選ばれし者”が現れなかった場合、オスカは一体ヒュセイノフ家のことにどうやってカタをつけるつもりだったのだろうか。
もしかするとバルジェロに黙ってふらっと姿を消して、すべてを終わらせたその後にまたふらっと帰ってくる未来があったかもしれない。
はたまたバルジェロ達にすべてを打ち明けて復讐に手を貸してもらうような未来もあったかもしれない。
彼らのコミュニティに触れ続けた結果、復讐を諦める未来なんてものもありえたのだろうか。
けれどそれらの未来が”選ばれし者”の存在によって”ない未来”になったのは確かなことだ。
それでもやはり考えるのはやめられないのである。
自身を守るために大切なものを"嘘だった"ことにして切り捨てないと心が守れなくなる感覚があるのを、私は知っている。
だから彼がティツィアーノとして過ごした時間は決して嘘ではなく大切な思い出だからこそ切り離そうとしたのではないか、そう捉えたい。
こんなタイトルをつけているが、そんな風に悪態をついて嘘にしようとするさまも、そうしないと保てない心の弱さも、それを隠し通してきた器用さや覚悟や愛もすべて含めて私が好きな彼なのだ。
どちらか片方だけならばきっとこんなに夢中にさせられていなかっただろう。
【辺獄で出会えない理由】
以下はこの期に一度まとめておきたかった全授関連の思考の残骸。
鈴木Pと普津澤さんが過去に受けたインタビューに物凄くよい言質があった。インタビューを言質と呼ぶな。呼びます。
鈴木:辺獄に留まっている死者たちは、何かしらの未練を残していることが多いので、どうでしょうね……。またオスカと会いたいですか?
引用元:https://dengekionline.com/articles/144644/
鈴木:辺獄をさまよう死者たちはそれだけ現世に強い未練や執着がある状態だということです。なかには誰かからの想いに引きずられて閉じ込められている、なんて人もいるかとは思いますが……。
引用元:https://dengekionline.com/articles/145662/
これらの話を受けて「オスカについては双方未練がないってことでいいですよね?????」と解釈している。
このインタビューは”物凄い”ことが書いてあるので読んでびっくりした。私が富編を読んで受けてた”特別”って妄想じゃなかったんだ………。
というような話をするのでよかったらインタビューも合わせてどうぞ。
ソニアの存在位置
これから語ることについて大事な前置きとして、私はソニアを決して嫌いではない。
ただこの物語や普津澤さんの書く人物像を深掘りしていくうちに頭に浮かぶことが、どうしても彼女の存在を踏むような書き方になってしまう。
とても心苦しいのだが向き合って掘り下げないとならないので書く。
ティツィアーノとピエロ・デッラの関係性が好きなのと同じように、バルジェロとソニアの関係性もまた好きだ。
ソニアはヒロイン枠に置かれているはずだが、バルジェロ……というよりかは普津澤さんの描く主人公・ヒーロー像はあまり性別を気にせず恋愛に無頓着な人物であることが多い。
異性だからといって気にかけることもなければ、恋愛や性愛よりも”仲間”だとか”夢”を大切にする、そんな印象だ。
私は異性間の友情も同性間の恋愛もすべて同等に扱いたい(その上であまり恋愛脳ではない)ので普津澤さんの書く人物描写がとても心地よく、バルジェロとソニアに関しても作中でしっかり色恋沙汰として描かれなかったからこそふたりの関係が好きだと言える。
想像の余地がある程度の”好き”があるからこそ、深掘りしたくなるものである。
ゆえに作品としてはヒロイン枠で登場しているソニアだが、バルジェロの圧倒的ヒーローぢからにより彼女もまたバルジェロから”たったひとり特別”の矢印を向けられることはない。
その結果、彼女は現世と辺獄で二度も踏まれることになる。
“こうでもしなきゃバルジェロが動かない”ことを表現するのにソニアの存在は必須であり、それだけバルジェロに大切に思われてきた証拠だ。
けれどバルジェロが”たったひとり特別”を持たない人間なせいで2回も彼女を越えていかないとならないのはかなり胸が痛む。
令和にこんなこと言うと怒られるのは承知な上で、バルジェロファミリーは”男達の友情”を主体とするコミュニティであってほしい気持ちが強い。
なのでソニアのポジションが物凄くしっくりくると同時にとても難しく感じる。
(かといってソニアはけして”女性”だから蔑ろにされている訳ではない、バルジェロ達はそういう奴らではないと強く主張したい。)
(ホモソーシャル化のナーフとしてレヴィーナさんが登場しているのはバランスもよく納得もいくので本当にバランスがいいなバルジェロファミリーは………。)
その上での対比
何が言いたいかというと辺獄でバルジェロのフックになるのはティツィアーノもしくはオスカでもよかったはずだ。選択肢としては十二分にあり得る。
けれど開発陣がそれをしなかったのはやはり”未練がなかった”からだと思いたい。
バルジェロとオスカ(ティツィアーノ)の友情だけは蹴りたくなかったんだな…………という強い意思を感じる。
作り手および受け取り手にそう思わせてる時点でやはりオスカの一人勝ちなのである。
創作物という点から論ずると辺獄にオスカを出すかティツィアーノを出すかでひと悶着起きるのは明確だ。
この点を話し出すと富授のラストの美がどうやったって損なわれてしまうので、作り手としてまず選ばない道だろう。
富授のラストはこれ以上プラスにもマイナスにもしてはならない今がジャスト完璧なのだから。
「未練がないから辺獄に登場しない」というのは、ティツィアーノやオスカのことでも、バルジェロ達のことでも、作り手サイドのことでもあるかもな。
(と、こうやって富授の厄介オタクが爆誕していくのである。)
キャラクターという点から論ずると、この点においては性別云々関係なくオスカとソニアが相撲をしてオスカが巨大感情張り手で己のポジションを守った結果と言える。
別にティツィアーノ(オスカ)はバルジェロとソニアが恋愛側面でどうこうなろうが一切気にしないどころか、その要素は共存できるだろう。
しかし”正面に立つもの”同士になってしまった以上、そこの席がひとつしか空いていなかったのだ。
バルジェロに惚れちまったもん負け同士の敗者復活戦である。
そもそも正面に立つ者としてはソニアが先にいたんですけどね、オスカ、お前ってやつはさ……。
と、ここまで色々言っているがどうしたって辺獄にいるオスカを見たくなかった自分にソニアのことで胸を痛める資格なんてない。
あとそれはそれとしてオスカ実装はしてください、頼むから。
【理想郷にいるべきは誰か】
サザントスが作った理想郷ヴァローレに対してずっと小骨が喉に引っかかっている。
理想郷ヴァローレの中では”ティツィアーノ”がバルジェロ商会の副会長として姿を現している。
当然家族とのいざこざもなく手紙で近況も報告しているほどに関係は良好だ。
だとするのであれば自立のためにヴァローレにいるのは”オスカ・ヒュセイノフ”であるべきではないのだろうか。
シアトポリスにいる”アーギュスト”がキャラクターだとするならば、”ティツィアーノ”もキャラクターではないのか……?
そんなことを長らく考えていたが、それはあくまでも”オスカ”にとっての理想郷の考え方である。
サザントスが提供した理想郷はこれまでの世界を見てきた選ばれし者(兼プレイヤー)に向けた問いかけなので、ここで”ティツィアーノ”が出て来るのはゲーム展開としては真っ当だろう。
ただそうなると結局私は理想郷の中でも”オスカ”を否定することになる。
私がもし理想郷のヴァローレを作るのであれば、そこには”オスカ”がいてほしい。
オスカがオスカとしてペルソナを被らずにバルジェロファミリーにいられたら……そう願ってやまない。
だからどうやったってこの地は私の理想郷にはなりえなかった。
サザントスさんとやっぱり物凄く解釈が合わね~~~~~~~~!!!!!(心の叫び)
なので私は私の理想郷をテキストにまとめて紙に印刷する必要がある。
【描ききらないことで存在する未来】
これらのことを受けてわかることは”オスカが辺獄に現れないほどすっかり未練がなくその命を全うした”もしくは”金の山から這い出てきて白ブドウ農園に乱入する可能性がある”ということだ(後者はオタクの妄言に近い)。
この余韻と余白を持つ一番の理由は、富を極めし者の最後に”ティツィアーノの亡骸をこの目で確かめなかったこと”を受けて、富を授けし者の最後に”120%死んだとは言い切れない”描写をしてる所である(これはあくまでも創作物の面で)。
「富極でああだったんだから、もしかして今回だって……」と思わせることが大切で、そしてその手法が物凄く巧みだ。
ここまで綺麗にまとまった中で前述のふたつの選択肢のどちらをとってもオスカ(ティツィアーノ)は幸せ者だと思う。
その上でふたつの選択肢を持ち合わせていることがさらに幸福だ。
だからこれ以上”持たざる者”から奪うようなことはしないでほしいし、そもそもしないんじゃないかなあ、皆すごいオスカのことえこひいきしてるし………というような気持ちで日々を生きている。
願望も込めた所感だが、今後オスカ実装などで今までの彼の追憶や心情が語られることやちょっとしたイベントごとでミニシナリオが与えられることはあれども、大事件が起きるようなバルジェロファミリーのこの先は描かれないような気がする。
もしあの後になんらかの大事件が起きているのであれば彼らの名前は無印の世界線に間違いなく轟いているであろう。
プレイヤーの私達は宗教・政治と同列で彼らの話に触れているが、やはりバルジェロファミリーの話はどこまでも”おれ達だけの話”なので、継章で見た彼らの姿から大きく変わることなく日常を過ごしてくれていればよいなと願っている。
バルジェロにとって人生に刻まれるような大事件はここまであったことで終わりにしてほしいという祈りと、こんなに綺麗にまとまった物語は間違いなくここで終わりにしてくれという祈りの両者が多分に含まれているので未来はわかりませんが。
(そして既に公式からの二次創作でさんざん与えられているのでこの思考回路は余計に屈強になっている。)
(こんなことを口にしているがいくらでもショートストーリーとかは欲しいし実装は絶対にして欲しい、オタクはワガママなのだ。)
【その時お前はどうする】
ここまであーだこーだ色々考えてもなお、これまでに書いたifやそれ以外のifを”あくまでもif”として想像して形にしたい自分がいるので、これはあくまでも妄想です!二次創作です!という前提でそんな彼とその仲間たちを描いていきたい。
ここまで思考を整理して、ここからがやっとオタクの仕事なのかもしれない。
これらのことをここまで考えられるのはやはり彼らが最初から最後まで”おれ達の話”をし続けてくれたからだ。
お陰様で彼らのifを無限に想像出来るだけでなく、どんなifであれ寛容に受け止められる。
もっともっとたくさん彼らのことを考え続けて、これからもずっと自分の頭と心の中で生かしていきたい。
そしてそうやって生まれた彼らの話に触れた誰かが、またさらに新しい彼らの物語を紡いでくれたらこれ以上の幸せはないだろう。
ーーーおれたちの創作はまだこれからだ!!!
樟先生の次回作にご期待ください!
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