【雑記】とある世界の終焉に「君は美しい」と叫ぶ -『ゲー魔王』完結によせて-

2024年6月20日(木)深夜、ジャンプ+で連載されていた『ゲー魔王』がめでたく最終回を迎えた。
本当におめでとうございます!
普津澤さん連載お疲れ様でした!!


私は物を生み出さないと生きていけないタイプで、かつ特定のクリエイターに狂わされた記憶が山のようにあるので、主人公・ロクを取り巻く人間模様がすべて他人事とは思えなかった。
そこそこの年数生きてきて「この感覚は中々マジョリティに理解され難い」とわかってしまっているからこそ、そこが鮮明に描かれていた『ゲー魔王』は名作だと大絶賛している。
特に終盤は情緒をおかしくさせ、手を震わせながらページを行ったり来たりさせていた。


普津澤さん宛に毎月ぽちぼち感想を送っていたのだが、そこに書いてある狂った文章を自分でも中々に気に入っているので、いくつか抜粋したものに大幅な加筆修正を行ってブログに残しておく事にした。
主にロクとエラーと須吾杉について、考察というよりかは私が彼らに触れて思った事の備忘録。
普津澤さんが何を思って描いたのかは相変わらず掴めないので、以下はあくまでも私の話であり、感情のメモ書きなのですべてが支離滅裂である。





※注意※
・本エントリには『ゲー魔王』のネタバレが含まれます。
・「クリエイター」という言葉を、普段筆者は「アーティスト」と形容していますが、作中でクリエイターと表記されていたので統一しました。
・文中にある“愛”、“惚れる”、“焦がれる”と言った表現は対人間の大枠に対して用いています。

 
6月30日まで全話無料だからこの期によければせひ。
shonenjumpplus.com


そして私は紙のコミックスで読むのを推奨しているのでよければぜひ。



[目次]

 

●特定クリエイターへの異常執着

前述の通り、私は特定のクリエイターに異常執着してどうにかなった過去を複数回経験している。
何度振り返ってみてもそれぞれの当時は幸せで、今となっても幸せだったなあと思えているが、それはそれとして異常だったのもまた確かである。

クリエイターというのは、ただただ呼吸のように作品を生み出して表現する、そういう生き物だ。
その作品を介して“誰かを救済したい”という思いを持っている人も中にはいるかもしれない。
けれど、クリエイターは自分が表現・創作をしないとどうにかなってしまうからそれらをやっている。
つまるところ究極の自己救済のための創作だ。
(職業としてのクリエイターというより、生き方としてのクリエイターのほう。)


けれど、圧倒的なパワーを持って出力される誰かの表現は異常なまでの吸引力を持つ。
愛・憎しみ・救い・妬み・悲しみ・苦しみ・希望……そのほかの何かしら。
それらが思い切りアウトプットされた時、何かを求めている人に届きやすく・響きやすくなっているのは確かだ。

絶望や孤独を感じて渇望している人間が、強い力を持つ作品に出会った時に、からからになった心が他者の感情で満たされ、“救われた”という感覚を覚え、その作品を生み出したクリエイターに執着してしまう。
(この感覚そのものは、何かしらの異常執着オタクをやった事がある人間なら理解できるのではなかろうか。)


結局のところ、救いを見出しているのも特別性を感じているのも己の脳みそなのだが、「この人のお陰で救われたんだ」「この人は自分と同じ気持ちなんだ」と思い込んでしまう。
人間の脳みそというのは不思議なもので、こういう時に運命を感じたり、己の半身を見つけた気持ちになってしまうようになっているのかもしれない。

そんな思いを自分の脳みその中で膨らませていく内に、自己暗示にまみれてあれよあれよと人は狂っていく

 

●楽しませたいのは“君”ではない

小学生のロクは「須吾杉を楽しませたい」と思いながら漫画を描いていた。
けれどこの願望は厳密には「“誰か”を楽しませたい」であって、須吾杉治という人間を救おうだとか肯定しようだとかそういう事ではない。
この時はロク自身が幼かった事もあり「誰かが楽しんでくれて嬉しい」と「須吾杉が楽しんでくれて嬉しい」の区別がついていなかったのだろう。
「“誰か”の中に君はいるが、決して君だけのためではない」というこの現実が何よりも辛い。

そして須吾杉は当時から、ロクと自身の線と線が交わったところに勝手に救いを見出している
これも正しくは“ロク自身”ではなく、ロクと過ごした思い出に付随する“須吾杉が生み出した幻想”なのだが、これらの違いを理解するのは中々難しく、大人になった人間でも容易に取り違える。
この違いを明確に区別できるのは、私のようにこの流れを一周以上終えてる者だけなのではなかろうか。


須吾杉はその違いを理解できず、かつ憧れの途中でロクと離れざるを得なくなった結果、幻想と美化で演出された思い出を心の支えにしてしまった
長年の間“ロクは自分と同じ事を考えているんだ”と信じて夢見てきた先で現実と相対した時に、自らの口で「なんか違う」と発さないとならない絶望は、それこそ作中の須吾杉の行動をやってのけたくなるほどの深さがある。
なので、須吾杉の一連の行動が決して他人事とは思えなかった。
特定人物に異常執着した人間はあれくらい深い絶望を感じ、あれだけの破壊衝動を持つ。

それこそ10代~20代中頃まで須吾杉みたいな思い込みで生きていた時期があるので、読んでて地獄みたいな思いをした。あまりにも描写が生々しすぎる。
『ゲー魔王』を理解出来ない世のすべての人間に伝えたい、「あなた達がそれを“理解出来ない”と大声で糾弾するから、余計にこの思想の者が孤立して、巡り合った時に異常執着を生み出すのだ」と。
こんなん私の世界じゃ普通によくある事ですからね。

 

●混じり合う線が離れたその先で

人の歩く道はそれぞれがそれぞれの線を描いているので、一次的に重なり続ける期間があったとしてもずっと同じではいられない。
須吾杉は、遠く離れていても自分とロクは同じものに美しさを見出していると信じていた。
けれど、その間のロクは自分の道を歩んで、自分だけのの物語を書いていた。

これはもう、どんなクリエイターだろうがアーティストだろうが起きうる仕方のない現象である。
私自身もロクのような側面を持ち合わせているので、数年前に命をかけて向き合っていたものに対して、それを嫌いになった訳では無いが、今全力で目の前になっているものに夢中で命を燃やす……なんて事はよくよくある。
そもそもどんなに仲良かった相手だろうが愛する人間だろうが、“自分の作品”に余計な事をする奴は全力で斬りかかるし、どんなに優しくされても作品を蔑ろにされると酷く落ち込む


作中のロクから須吾杉への感情を淡白だと思う人間には決して解らない衝動を持ち合わせているのが、自分の為にクリエイトして生きている人間だと思う。
(あと生きてる中で触れるものをなんでもネタにするのはロクと普津澤さんの似たところかなあ、と感じている。)
ロクは社会生活や人間関係よりも、クリエイトに全てのステータス値を振っているから仕方ないし、だから私はロクの事が好きだ。
そもそもロクの作品を勝手に踏みにじったのは須吾杉なのに、許されてるだけロクは温情に厚く優しいように思う。
私だったら末代まで呪って絶対に救ってやんねえ。

つまるところ、ロクと須吾杉が「永遠に同じ美を貫く」のは、完全に同じ環境下にいて互いにどうにかなり続けていないと難しい
けれど重なりあう期間が長かったり濃密であればあるほど、「もしかして離れても一緒なんじゃ」という思い込みは深まり、その結果解釈の道を違えた時の心のしんどさは、救われた時の多幸感の何倍も苦しく、どうにもならない絶望へと生まれ変わる
「この人に救われた」と執着していた相手から「お前は違う」と切り離された瞬間の、「世界なんて全部いらない!」と叫びながらすべてを破壊したくなる衝動を私は間違いなく知っているので、終盤の須吾杉の主張を見るたびに胃がぎゅっと縮こまってしまった。

 

●エラーと須吾杉の対比

作中でも明確に描かれているが、須吾杉にはシンプルに才能があり、彼もまたとても優秀なクリエイターだ。
社会性のステータス値をすべて空想とアウトプットに全振りした、いわゆる“超天才型”というやつ。しかもIQもめちゃくちゃ高く、処理速度が異常だ。
後ろに強いプロデューサーがついてコントロールさえすればドル箱になるのは間違いない。
その上で、須吾杉はかなり自他境界が甘いように感じる。

小学生当時のロクと須吾杉、そして今のロクと須吾杉の一番の違い。
それはただひとつ“一緒の時を過ごしてない”からでしかない
一緒の空間にいて、同じ時を過ごして、その場でリアクションを共有して生み出された作品には、多かれ少なかれ同環境化にいる人間の影響が含まれる。
当時のロクと須吾杉は、間違いなく双方で影響を受け合っていたのだろう。

なので誰よりも早くロク作品に触れて、自他境界が曖昧になっていた須吾杉が「僕のための作品だ」と思い込むのは無理がない。
何故なら、そこには間違いなく“須吾杉がいたからこそ生み出されている黒騎士”がいたので。


もういっぽうのキーパーソン・エラー。
彼もまた高IQ保持者で、その思考の速さゆえにコミュニティは愚か家族からさえも疎外されて生きてきた先で、ロクと出会う。
エラーと須吾杉の明確な違いは、エラーがクリエイターではない事だ。
エラーはあまり空想・妄想癖がなく、自他境界もハッキリしている。
また、あくまでも”自分を否定しなかったロク”や、そのロクのクリエイターの生き様に惚れ込んでいる。
クリエイターの横にいるべき、理想的なアシスタントやセカンドだと感じた。

ロク自身は感覚型で自他境界が強く、言語のアウトプットが少し遅いので、感情的にならずさくさくデバッグして、頭のキレる存在であるエラーは物凄くベストな相方だなあと思う。
エラーが自分の分も考えてくれる事を素直に「すげえ」と讃え、考えすぎてる事で悩み苦しむエラーに生きる価値を与えて、その上で己の創作に生かしているの、最高すぎる。
(というか普津澤さんって多くを語らない真っ直ぐな奴+思考が早いセカンドの組み合わせが好きなのか?とへらへらしていた。私も大好き。)


ロクと須吾杉はクリエイター同士で同じ土俵にいて、ロクとエラーはクリエイターとアシスタントとして明確なトップダウンが存在する。
須吾杉が“ロクと自分の作品”に執着していたのと異なり、エラーの場合は“ロク自身”の為に身を削った先に作品があった
須吾杉を救ったのは“自分と同じ考えで、それを与えてくれるロク”であり、エラーを救ったのは“自分の在り方を否定せず、また己も己を貫くロク”だ。
ロクを人間として認識しているかそうでないか、自分と他人かどうか、自己愛があるかないか。これらの差分で須吾杉とエラーはまるでまったく別の道を行く結果となった。

 

●同じ道を歩めないのであれば、いっそ

須吾杉は決して頭の悪い人間では無いので、色んな事を本質的にはとっくに理解していたのかもしれない。
けれど認められずに駄々をこねた結果生み出されたのが、彼の作った『ゲー魔王』の世界。
わかる、わかるよ、たったこれだけの事を認めるのにはとてつもない勇気がいる。
だからこそ“あの日君と一緒に見た美”を肯定するために、現在を否定して、あそこまでの事をやらかしてしまう須吾杉を私は他人とは思えないし、彼の熱量や異常行動を絶対バカにしたくない。

ロクと須吾杉の双方が道を違えた事実を認め、互いに手を取り合ってどちらの道でもない第三の道を選ぶのが、いわゆる集団創作の在り方かとは思う。
ただそれは「ふたりでやる」が大前提としてある場合にしか成立しない。
ロクはロクの物語の続きを、須吾杉は“僕に与えてくれた物語”の続きを描きたい
それが緩衝してしまった際に、どちらも譲らずに全力で殴り合っているのも、また強い愛情と相手へのリスペクトだよなあ、と思った。
相手を認めていなければ同じリングに上がらないし、殴り合いにもならないので。
(エラーがロクに対して“須吾杉を訴えないのか”と問うた時の受け答えが、ロクの須吾杉への評価だ思うし、才能や面白さを認めているからこそ作品でねじ伏せたかったのだと受け取っている。)

 

●ロクへの救い

殴り合った結果、最後に残った方が正史になるのは現実の世界でも何度も繰り返されてきている事だ。
なので、ロクと須吾杉もどちらの作品が正しいかを歴史に刻む戦いをしている。
この殴り合いは、どちらが勝っても苦しいし割り切れないだろうが、だとするならば最後にひとりで生き残ったロクを救うのがエラーの存在であってほしい、と、私はずっと願っていた。
(そもそもエラーの存在がロクにとっての救済になっている事実はコミックス4巻を読めばわかるので、ぜひとも読んでください。4巻に全部が詰まっている。)


前述の通り、エラーはロクを一人の人間として見ており、“自分が惚れ込んだロクという人間が描きたいから”という理由で作品を守ろうとしていた印象が強い
そして作品の内容を肯定しても否定や口出しはせず、自分の物語とも認識していなかった。
その上でロクの心が折れそうな時にロクが大切にしている“黒騎士”に救われたと言い放つ事で、ロクの心を救ったのだ。
なんとも優秀なファンである、というか人間のオタクをやるのが上手いオタクだ。
須吾杉が感情論かつ文系的な異常執着をしていたとすると、エラーの方が冷静で理系的な異常執着をしていたように感じる。
(エラーがハッキング好きなのわかるわあ、と思っていた。“この理屈がどうにもならない”方が気になっちゃうんだよな。)

エラーはきっと作品がどう展開しようと、常にロクが楽しみながら生み出した黒騎士の物語だったら喜んで面白がったと思う。
そして、そんな存在はロクにとっては救いである。
というか“自分が何をやっても全肯定してくれる上に細かい所まで見抜いてくれるファン”の存在はクリエイターにとっては必要な心の拠り所だ。
しかも同担拒否もしない、マジですごい。須吾杉は最古参面した挙句同担拒否しかしていない。そんなお前が嫌いじゃない。


だからこそ、ロクを取り巻く人間関係の中で、それぞれの悲痛な過去が明かされ、皆が次第に「現実よりこちらがいい」と口にすればするほど、ロクにとってエラーの存在が大切になっていく
自分一人でマイノリティ側にいると心が折れそうにもなるが、そこにたった一人味方がいるだけで頑張れるし、負けられない理由になる。

周りの皆がああなっていったから、ロクにとってエラーが特別になり、エラーが“たった一人の最後までの味方”だったから、ロクはあの世界を覆せた。
中途半端に仲間がいたらああなってなかった気がする(この物語がチームプレイだったらそれもあったかもしれないが)

これはどこまでもロク一人の戦いで、そこにプラスαで付随していたのがエラーだった。
須吾杉はロクの正面に立つ事でロクの特別な存在になりたかった。
どちらが正しく、どちらが幸せかを第三者が測るのはナンセンスだ。
須吾杉もエラーも、己のエゴで己を貫き完遂している。それぞれ美しくて讃えるべきだ。
 
ただ、この話の苦しいところは、それもこれもどれも全部須吾杉が作り上げた結果である事だ。
須吾杉が『ゲー魔王』を生み出さなければ、ロクが孤立する事もなく、エラーがロクにとっての“たった一人”にならなかったかもしれない。
この須吾杉への因果応報の描き方があまりにもソリッドで、またもや地獄みたいな気持ちになりながら読んでいた。


●須吾杉への救い

ロクの「おまえを喜ばせたくて描き始めたのに」の一言で、それまでこの話を読んでいた私が救われて、その直後の「いつのまにかその気持ちはなくなってた」と別の道を歩んでいる事実を決定づけられて心臓がきゅっと握りつぶされそうになった。
出会った時のあの気持ちも、一緒に作りはじめたこの世界も、ロクは決して忘れていた訳では無い。
“けれどもう今は違う”という目を反らせない現実だけが襲い来る
きっと須吾杉はそんな事さえもわかっていたからこそ、現実を覆してただただロクと遊び続けていたかったんだろうなあ、と思った。

そして、

「お前を“悪”にしたのはオレだ」

ロクのこの一言で震えあがった。


決して今までの恨みつらみを無かった事には出来ないけれど、ロクがそれを理解して一緒に罪を背負ってくれるのであれば、須吾杉のこれまでの人生がすべて報われる……そんな気がした。
須吾杉が必死に叫んでしがみついていた思い出そのものをロクが理解してくれて、その上で“否定しない”でいてくれる事がどれだけ嬉しいだろう?と考えていたら涙がぼろぼろと溢れて止まらなくなった。


ずっと一緒に子供のまま、あの頃のままここでこうしていたかったけれど、時間は残酷にも人を変え、大人にし、そして道を分つ。
その上であの時にしがみついて“終焉”を望む人間の事を、私は絶対に否定したくない
そして特定の誰かに終わりにしてもらう事を望む人間の一番の救いは、その対象がきちんと“終わり”に導いてくれる事だと信じている。

一緒に肩を並べて、あの時の様に笑い合う事は決して出来ないけれど、君と紡いだ美しい物語を美しいままに終わりにさせて欲しいと思う感情は、それこそクリエイターが一瞬の刹那を作品に落とし込むための根幹的な衝動だとも思う。


須吾杉はきっと“あの時”を大切にしたまま宝箱にしまい込んで、何度も何度も同じように描きたいタイプのクリエイターだ。
いっぽうのロクはその時の環境に影響を受けながら、どんどんと進化して形を変えていくタイプのクリエイターなんだろう。
そんなふたりが一緒に何かを作れる機会はもう無いかもしれないけれど、形を変えていくロクの創作物の一番根っこに“須吾杉と過ごした時間がある”という事をロクが理解しているのであれば、それはなにものにも代え難い救済だと私は思う。

 
現実世界で“須吾杉みたいな誰か”がああして輪に入るキッカケに『黒の伝説』があって嬉しく思い、ロクのスマホの着メロが『ゲー魔王』のテーマ曲である事実を受けて、また涙を流した。
こうやってきちんと、須吾杉はロクの作品の中で生きている。
ロクが口にしている通り、須吾杉がいなければ『黒の伝説』はここまでの所に来れなかった。
須吾杉のやった事も全部意味があったんだと肯定して、背負い続けてくれる強さがロクにはある。

 

●隙あらば自語り失礼します

この後の話をする為の補完として、一旦自分の話を挟む。

エラーや須吾杉ほどではないが、私は基本的に周囲のコミュニティにうまく溶け込めず、その結果たまたま救いを与えてくれた“何か”を生み出した人間に異常執着する人生を送ってきた。
周りにあまり理解されない中で、自分に何かを与えてくれた誰かに救われた経験も、自分を否定しないでいてくれた誰かに救われた経験もある。


そんな私は昔から基本的にあまり生きていたくなくて、けれど美しく死ぬ必要があるし、私が死んだ後に私の人生を美しいハッピーエンドとして語ってくれる人と出会わないとならないから、やむを得ず精一杯生きている。
本当はそんな他者がいなくても、誰になんて語られようとも、自分の中で「幸せだったな」と思えたらそれでいいんだろうけれど、私は私の事を理解出来なかった第三者に羨ましがられたい欲がある。こじらせてんな。


日々脳みそをすり抜けていく私自身の刹那的思考は、こうして自分で責任を持って語りながら生きていくけれど、最期だけは自分で始末がつけらないという事実が本当に辛くて堪らない
けれど、私の思想に影響された人間がその人の中にしかいない“私”を想って作品を生み出してくれたら、私は人生という刹那を“永遠”に変えられる。
私は“物語”になりたいし“永遠”になりたいし“神話”になりたいし“星座”になりたい。

だから、私の死後は誰しも“泣く”なんて凡庸な行動を取らないでお前だけの表現手法で私を想ってなんかしてくれやと思っている。
相手がその時の感情を表現に変えてぶつけてくれたら、その時私は誰かの作った“作品”になれる。
私を愛した誰かが、私を想って踊ったり歌ったり何かを生み出してくれたら、それが私の墓になる。
形なんてどうでもいい、誰の言葉でも言い表せないその人だけの感情を私にくれよ。

そんな事を考えながら生きていく途中で、須吾杉のような振る舞いをして全てをめちゃくちゃにした過去を踏襲した後に、また別の場所でエラーのようにある種の自己犠牲で一歩後ろに下がって誰かの作品の糧になった過去があった。
もちろん、私にとってのロクとも呼べる人間が、私の事をエラーの様に想ってくれているかはわからない。
けれど、私が存在していた上にいなくなった事実を無にせず、クリエイションをする時に頭の片隅にでも思い返してくれていたらいいなと願って暮らしていた。

●エラーへの救い

なので私はエラーをずっとずっと贔屓して、彼に幸せになって欲しいという願いを持って生きていた。
だからロクが”誰か”と口にした時によぎる記憶がエラーのもので泣いてしまった。
あの時のロクはエラーそのものを覚えていないかもしれない、けれど漫画家としての魂や本能がエラーを間違いなく求めていると思ったら、たまらなく胸が苦しくなった。

世界中のハッピーエンドに向かわなかったとしても、エラーが幸せになる未来が待っていてくれたらいいな、と願いながら最終話を待ち構えていたので、あの最高の最終話を目の当たりにして、もう「美しい」以上の何も言えなかった
エラーが本当に羨ましかったし、エラーを好きになってよかったと思った。
愛した者の作品の糧になる事、作品を介して永遠に心に棲みつける事、そしてこれから先も共に生きられる事、なんて幸せだろうか。


ロマンに溺れた最悪物作り人間からすると、納得したり満足したり与えられすぎたものはもう必要なくなってしまったり、執着しなくなってしまったりする。
どうやったらいつまでも相手の中に存在出来て、焦れ続けられる存在になれるかどうかを考えた時に、その相手と永遠を共にするには“物理で隣にいる”よりも“もう二度と会えなくなってしまった”方がよかったりもする
その上で、終わらせてからではないと安心できない人間は、「この後どうなるんだろう」と一生ソワソワしながら現在進行形でいる事よりも、ラストシーンのその後で「まだ好きでいられた」「美しく終わらせられた」と思って一生相手の幸せを祈っていた方が幸せな事もある


実際問題、もしあのままエラーが生きていたとして、きっとロクとエラーはずっと一緒にはいられなかったんじゃないかなあ、となんとなく思う。
ふたりの世界が移り変わっていく中で、揉めはしなくともいつかは道を違えて離れてしまったのではなかろうか。

だからこそ、一番愛されたタイミングでピリオドを打てるエラーが眩しくて羨ましくて堪らなかった。
私もあんな風に生きて、あんな風にクリエイターに想われて永遠になりたい。
こんな美学を持つ私にとっては『ゲー魔王』の世界が心地よくて堪らなかった。
私は、こんな人間関係に憧れていて、こう描かれる世界をいつだって眺めていたい。
ただただ胸がいっぱいになって「この作品をこんなにも美しいと感じられる人生でよかった」と心の底から思った。


賢明な読者諸君はおわかりでしょう、まさにこれが他者に理解されづらく生きてきた中にある日突然見出す救済への巨大感情ってやつですよ。
この気持ちを理解出来ない人は、きっとマジョリティ側にいて幸せなのだと思う。
でも、私は私で“この気持ちを理解出来る幸せ”を噛みしめる権利がある。
だからこの作品をバカにする人間の事も、そもそも誰かが一生懸命紡いだ物語に軽率に石を投げる人間の事も、私は絶対に許さない。
(とはいえその人達に何したところで人生の時間の無駄であり、各々の生き方や感性を否定する気もないので、私はこうして1万字のブログを書いている。)

 

●おわりに

困った事に、いい感じの結びの言葉が見つからない。
何故なら、作者に伝えられるべき言葉はぜんぶご本人宛のお手紙に綴ってしまったからだ。

ちなみにその手紙にも記したが、ここに書いてあるような私の解釈や作中人物への勝手な同調は、決して作品の考察ではない
私に普津澤さんの意図が読み取れているとは思っていないし、登場人物の心情を代弁する気もない。
そもそも普津澤さんが何を思ってキャラクターを生み出し、動かしているかは私には到底わかりようがない。
なので、これはただただ私の感想だ。


そして、私が『ゲー魔王』という作品に触れてこんなにも感銘を受け色々な記憶が呼び戻されて心打たれたのと同じように、きっと別の誰かにもまたこういった景色の追体験があると思う。
それらすべてはどれも正解で、どれも間違っていない。
かつてクリエイターに異常執着した記憶のある誰かが、そして今現在何かと戦いながら生きているクリエイターが、この物語に触れて救われたらいいなと願っている。

 
私はこのように特定のクリエイターへの異常執着の仕組みを理解している人間なので、別に普津澤さんにとっての須吾杉になる訳でも、エラーになる訳でもなく明日からも生きていく。
(むしろ須吾杉かエラーのいずれかになっていたら、普津澤さんの新作に触れられなくなってしまうのでこれでいい気はする。)
これが名前のつかない“待っている誰か”になるって事かもなあ。


とにかく、『ゲー魔王』という作品に出会えてよかった。
そう思っている事実に間違い無く、その気持ちをこうして自らの言葉で綴れる今を幸せに思う。

普津澤さんとロクのこれからの活躍を、全力で応援しています!